きらいな人、きらいなきらいな人
何ヶ月か前に、近所の女の人がうちの入り口で「わーわー」言っていたことがあった。
それまでは、その人のことはあまり知らなかったし、いいとも悪いとも思っていなかった。
だけど、そのときから、この人のことを見聞きするといやな気分になった。
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日本の教育では「人を嫌っちゃいけません。みんな仲良く」みたいなモットーが押し付けられている。
(でもそれって本当は人間には「好き嫌い」が自然にあるってこと。)
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以前のわたしは「人をきらっちゃいけない」と思いすぎていた。
それで「人をきらいである」ことについて自分の自由をそいでいた。
でも少しずつ、自分の「○○さんをきらっていること」を認められるようになってきた。
わたしにいやなことをしたとか、そういう相手に対してだ。
理由が成立する場合に「人をきらっている」を「OK」にしていった。
少しずつ自由になってきた。
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だけど、例の件では女の人は、わたしにではなく、わたしの家族に食ってかかっていた。
わたしはそこでの揉め事を治める側にまわった。
でもその「わーわー」が本当はムカついていたんだな。
そして少しずつきらいになっていたんだ。
「だけどわたし自身はぶつかっていないから」という理由で、「治めないといけない」考えが表面上、継続していた。
けれど、その人のことを見聞きしたり、思い浮かんだりする度に、いやな感覚があった。
自分が相手をきらっていることを望ましくないと思い、自責しているためだと気づいた。
自分のほとんど無自覚な思考が自分の感情を責めていた。
自分の中の一部が自分の中の一部を批判していたら、それはいやな気分になるのは当たり前だ。
自分の中の矛盾したものに調和を見出さなくっちゃ。
「あのときは治める側にまわったけれど、直接はぶつかっていないけど、あの人をきらいになっている」と認めてしまおう。
それが健全なんだと思う。
少なくとも自分の中がこじれないからね。
仲良くしようと自分を無理させることはしない。
だって、それは自分の感情を裏切ることになるから。
誰かをきらいだとしても、それは自分の感情の事情だから、相手を裁く必要もない。
悪化しないように距離を置けばいい。
今のわたしのスタンスはこれでいい。
自分を裏切らないことが大切だ。
パーシー






