それが苦痛なものなら機能不全家族は家族じゃない
自分の人生に主体的でいられるようになってきていて、いい感じの部分が出てきていた。
けれどよく分からない緊張感が高まってきているのを感じてエンプティ・チェアを行った。
最初に少し瞑想をして、セルフと繋がりやすくした後に始めた。
数年前に断った実家との関係性について、わたしのインナーチャイルドの中に恐れをもっていると感じた。
エンプティ・チェアを進めていくと自分の過去に引き戻されたくない思いから、この恐れを後ろに回していたことを自覚した。
インナーチャイルドは、御伽噺で<みんな仲良く暮らしましたとさ>がよいあり方だと聞いているから、そうじゃない自分は許されないのだろうかとわなないていた。
(子どもは、スピリチュアリティが大人より高いけれど、知性=マインドは十分発達していないので、物事を誤解して苦しむ。)
「亡くなった家族やご先祖たちは生きている家族が仲良く過ごすように望んでいるだろうか?それでもあの人たちはいやなんだ」といって泣いた。
「人を苦しめても構わない人たちなんだ、いやだ」といって泣く。
・・・そうやっていく間に思い出した小さい頃の場面は、両親のひどい夫婦喧嘩の次の夕方という感じの場面だった。
母親が近隣の都市からの出張の帰りで、洋服などを子どもたちに買ってきていた。
わたしや姉妹は洋服をもらいに母親の元に集まる。
父はその雰囲気から排除されている。
両親の喧嘩後の関係性の修復はされておらず、冷えた空気が流れているのに、日々は次のコマに流れていく。
濁ったようなものがあって不安を感じていた。
家の基盤のどこかが腐っているのに、それを無視してものごとが進んでいく感じ。
仲良くないことがあるのに「家族」という名のものが存在する。
嘘偽りがある、真実じゃない、不和にフタをしている。
不安を感じているのにそれを表現することができない。
そういう「家」の感覚がわたしの中にあった。
その不安を感じる家はいやなんだ、思いやりをもち合うのでなければいやなんだとインナーチャイルドは感じている。
<機能不全家族>。。。ハタと気づいた。
「家族」として機能していないということだ。
つまり「婚姻・血縁」で寄り合っているけれど、「家族」ではなかったんだ。
わたしは「家族」ということで、自分を傷つける相手に我慢をしているところがあった。
ああ、家族じゃないんだ。
それなら話が違うなと思った。
邪険なことをする相手を自分の懐に入れる必要はなかったんだ。
丁寧に門前払いして構わなかったんだ。
わたしたちは自分たちの安心や幸せを思える相手だけを家族としていい。
愛がある相手だけを家族としていい。
親戚はいろいろだとしても、家族は自分自身で決めていい。
そう考えられるようになった。
インナーチャイルドはちょっと安心した。
もっともっと安心できるように一緒にエンプティ・チェアを続けよう。
ね、チャイルド。








