「怒りを手放すこと」と「許すこと」は別
今回は姉妹との関係についてのインナーチャイルド・ワーク。
機能不全家庭で育った兄弟には団結して仲良くやっているケースもあるだろうが、我が家はそうではなかった。
多分、比較されながら育てられたから、姉妹同士は過酷な生存競争のライバルになったのだと思う。
長じてくると協調できる関係性が少しできてきた。
その後、異様に付き合いが濃い時期もあった。
外部の他者との付き合いに信頼がおけなくて苦手なので、内側での付き合いばかりになったのだ。
それぞれが家庭をもつようになると、付き合い方が変化してきた。
それぞれが外部になり始めたからだ。
それは自然な変化だと思う。
しかし外部となったことで、姉妹からいいように利用される感じがしてきた。
それでも実家関係を助けないといけないような思い込みの呪いがまだまだ取れていなかった。
これはアルコール依存症者のいる家庭で育った子どもに起こりやすいことで、わたしはまさしくそのひとりだ。
「利用されている感」と「それでも助けなければいけない」の呪いの間での板ばさみが長いこと続いた。
少しずつ内観やヒーリング、クリアリングの中での気づきを受けて「おかしい」と思えるようになった。
夫に言わせると「一方的に利用されていると感じていた」とのこと。
やっぱりそうだよね。
でも頭で理解しつつも、本当に分かるまでに何年もかかった。
母親が彼女の妹や弟に愛情をもっているようではあるが、彼らを計算の対象にしていたのも思い当たる。
「○○円渡せば、妹はこれから手を引くだろう」「○○円なら、弟はこれを買うだろう」。
わたしから見ると、自分の兄弟をコマのように都合よく使っているような感じがした。
わたしの姉妹の一人は、彼女自身の人生を「結婚の年齢は・・・」「妊娠の年齢は・・・」などと、母親になぞらえていたので、こういうことについての価値観も母親に似てしまったのかも知れない。
わたしが利用されることに抵抗するようになったので、彼女はぶちぎれ、恐ろしげな声で恫喝したこともあった。
そういう流れでわたしと姉妹は決裂したのだけど、最後の方の恫喝とかについてはわたしの中におびえる部分があった。
単に大人のわたしが恐がったということではないような気がした。
対等でなく、インナーチャイルドが刺激されておびえていたような感じだった。
それでワークをやっていってみると、決裂したことによって実家という基盤を失ったと思ったわたしの恐れがでてきた。
そのきっかけを作らせた姉妹のひとりに強い怒りや恨みをもっていた。
しかししばらくみていくと、自分の本当の基盤はそこではないことがやっと分かってきた。
わたしを苦しめてきた人間関係は健全な基盤になり得ない。
本当はわたしは関わりたくないのだ。
愛情がないわけではないが、関わりたくはない。
関われば憎むようになる。
「怒りを手放すこと」「許すこと」「受け入れること」「愛すること」は全て別々なのだと書いてある本があった。
このことはわたしにとってはすごく分かりやすかった。
怒りを手放すこともできていくだろう。
愛することもできるだろう。
しかし受け入れることと許すことはしない。
今、そんなことをするのはインナーチャイルドを傷つけることになってしまうと感じる。
インナーチャイルドは「あの人たち、きらい」と言う。
心の刃物を何度もわたしに向けた人を信じることはできないし、しない。
そういう人を信じるのは自分を大切にしないことになる。
刃物に自ら寄って行くことになる。
わたしは自分のインナーチャイルドを大切にする。
大切なインナーチャイルドを機能不全家庭からすくい、大事に育てていく。








