インナーチャイルドに影を落とす過去◇虐待
このことは今までのブログでは書いていなかったことだ。
自分の中で書く準備が整っていなかった。
それは子どもの頃に受けた虐待のことである。
虐待をしたのは母親なのだが、本人が『虐待』と意識していたかは分からない。
子どもをいたぶっていたことは分かっていただろう。
「ちょっと、いじめただけ」と思っているかも知れない。
その部分の判断の力は充分でなかったかも知れない。
実態を聞くととても気持ち悪いと思う。
わたしや姉たちは、母親によって組み伏せられ、つばを落とされたりした。
最悪なのは、さらに口づけをされることだ。
それも嫌がるようにわざとつばでべちゃべちゃにした口で。
姉妹同士助け合うことはなく、自分が被害に合わないように、他の子がやられるときはその子をそのまま犠牲にする。
うろ覚えだけど、被害から逃げおうせたときには母親を介助する側にまわっていたような気がする。
本当、最悪だ。
しかし誰も守ってくれない中では、自分が被害にあわないようにすることが第一だった。
それでも末っ子のわたしが一番、被害にあったと思う。
今、推測できるのは、母親自身も何らかの虐待を受けたのかもしれないということだ。
だからって子どもに虐待するのは許されることじゃないけど。
あるいは、彼女はキリスト教の高位聖職者の過去世があったと言われたそうなのだが、異端審問や拷問していたのかも知れない。
その関係で闇の存在の憑依だった可能性もあると思う。
覚えているのは、彼女が50代の頃に、虐待被害のために多重人格障害になってしまった人の本を何冊も読んでいたことだ。
普通は読んでいて楽しい気持ちになれる種類の本ではないのに。
内に異常なものを抱えていたのじゃないかと思う。
一方、子どもは本来守ってくれるはずと思っている親からされた仕打ちにずたずたになる。
「おかしい。おかしい」
そして幼い子どもにとって神のような存在である親が正しくないわけはないと考える。
そしてこんな仕打ちを受ける自分に問題があるのかなと思ってしまうのだ。
羞恥心を覚え、さらに罪悪感を抱えるようになる。
そして全てを秘密にする。
自分でも気にしていないふりをする。
恥ずかしいから。人に知られてはいけないから。
全てが自分のせいかも知れないから。
そうじゃないのに。
しかし『虐待』というものの情報を知らない間は自分の過去に光を当てることができない。
情報がなければ、虐待だったということが認識できない。
虐待について広く語られることが必要だ。
知ることは被害者の心の中に闇が広がらないように少しでも役に立つはずだ。
虐待被害者は加害者に思考をコントロールされていることも多い。
虐待を受けた人は加害者から早く離れる方がいいと思う。
以前、見たテレビでの情報では、暴力を受けながら飼育された犬は、優しい人が世話をしようとしても牙をむき、暴力的な人に服従するらしい。
暴力的な状況の中で自分の生命を守るために脳が変わるという。
それを癒すには結構な時間が必要らしい。
また監禁や誘拐などで人質にとられた人は、長時間、犯人と過ごすことで、小さな親切を受けただけで犯人に対して過度に好意をもつことがあるという。
「それまでダメだったのに、トイレを自由に行かせてくれたから」「食べ物を与えてくれたから」
生き延びるために、無意識にも状況に適応しようとする生存の本能のようなものだろう。
しかし自分に苦しみや不自由を与えた相手といたのでは、考え方や脳は健全さを取り戻せない。
少しでも早く虐待した相手から離れ、自分の置かれた状況を理解していくことが必要なのだ。
虐待は連鎖すると言われている。
子どもに虐待したくないという気持ちが子どもを作らない選択をさせることもあるという。
わたし自身は子どもを作っていないが、姉妹のひとりがその子どもに似たような仕打ちをしている現場を一度だけ見たことがある。
フラッシュバックなのか、わたしは恐くてフリーズしてしまい、止めることはできなかった。
悔やまれるが、あのときの自分にはやはり無理だったと思う。
やっとここに虐待の過去を書くことができた。
一歩先に進むことができる。








