子どもの頃の友達関係◇インナーチャイルド・ワーク
もうすっかりいやになった。
(といいつつどこかで持ち直すだろうけど)
今回もインナーチャイルド・ワークをセルフでやった。
今回やったのは小学校の時の親友と思っていた子との仲違いだ。
わたしの記憶では――
6年生のある日、学校に行くとその子が怒っているようにしらんぷりしている様子だった。
何だろう、嫌われるようなこと、怒らせるようなことしたかなと考えても何も思い当たらなかった。
こんなことは今までなかったので悲しいし、話しかける勇気がもてなくてずっと遠巻きにしていた。
小学校を卒業するまで、どちらからも関わっていかない状態が続いた。
中学校は同じだったが、クラスは一度も一緒にならなかった。
そして別の高校に進学したので接する機会はなくなった。
同窓会は2回くらい参加したことがあるが、そのときにはちらっと挨拶を交わした程度だった。
今まで、この未解決のものごとについて、他人に言ったりはしていなかったが、いや、言っていなかったからこそ、わたしにとっては心の奥にひっかかった大きな棘だった。
棘は何年も放置され続けたが、ついにこの数年前に知り合いの伝手を辿って電話を調べて、連絡してみた。
相手はその仲違いの理由を覚えていなかった。
だが「わたし、悪魔みたいなところがあるからね」と言った。
この言葉は電話が切れた後もわたしにとって不可解だった。
わたしの中では真っ直ぐな人だとずっと思っていたからだ。
そして何年か経った今、特定の人以外の人を信じられず、友達関係を作れないわたしは、インナーチャイルド・ワークでこのテーマを癒そうと思った。
いつもの手順を追って、ワークに入っていくと、押さえつけたような悲しみでいっぱいになるのを感じた。
自分の手に負えないような大きな悲しみ。
小学6年生のわたしは、この悲しみに対処しきれず、見ないふりをしたようだ。
家庭の中の問題に疲れていたので、親友と思って信頼していた相手とのこじれを担う余力はもうなかったと感じた。
そのときの苦痛な感情のふたが開けられ、押し寄せる悲しみに力をなくし、テーブルにしがみつくようにして、涙も鼻水も涎も流れるままに、今までにない程に泣いた。
疲れる程に泣いて、泣いて、泣いた。
長い涙の時間が終わるとわけの分からないムカムカとした怒りが湧いてきた。
そして文句など言いたいことを一通り言っていった。
そのとき、言いたかったことが終わったので、相手はどのような気持ちでそのような態度をとったのだろうと思った。
催眠状態では共通無意識によって相手の思いを感知できる。
すると相手は自分の家の中で何かのコンプレックスのようなものを抱いていて、そこからくる心の不安定さのようなものの憂さを晴らすのをわたしに向けたようだと感じた。
面白くないこと、むかつきを抱えた人間が、不機嫌な態度をすることで、他の人をコントロールしておもちゃにすることで自分の不満を解消していた。
「悪魔みたいなところ」の意味がはじめて理解できた。
それまでのわたしは自分の落ち度ばかりに原因を探していた。
ワークの中で冴える直感の中で、自己卑下が自分の側の原因としてあるのだとも感じた。
相手側の原因は相手側の課題だ。
きっとあれから関わらなくなったのは間違いではなかったのだろうと感じる。
今回のワークの中は「あのときこうしていれば・・・」という思いは湧かなかったから。
このワークで感情を解放し、理解を進めていったことで出てくる自分の中の新たな可能性は・・・
「怒ることができるようになる」と感じた。
そして自分の中の高次な部分に対して質問した。
友情関係を正常に結べるようになるにはどうすればいいのだろう?
そのメッセージは・・・
「自分を一番大切にできること」と感じた。
自分自身を大切にして、自分の感情をごまかしたりせずにいること、それは自分を親友とすることである。
自分にとって一番身近な自分を大切にして受け入れること。
それができなければ、大切にする関係性を外に見出すことはできないようだ。
そしてワークを終わってしまった後に少しずつ思い出したことがある。
ああ、そういえば、わたしも人を大切にしなかったことがある。
人をおもちゃのように扱ったことがあった。
そのときはその人はその後、怒って離れていったっけ。
その人の怒りの姿はわたしの参考になるはずだったのだな。
怒っていいんだな。やっとそう思えた。
怒って当然っていうことがあるのだ。
本当の自分の声は笑いや喜びばかりとは限らない。
不当なことを強いられようとしたら、怒ったりしたっていいのだ。
それは公正なことなのだ。
怒るっていうことを学んだら強さをもっと取り戻すような気がする。








