人間関係の死☆通らなければならない道がある
「いつまでも仲良く暮らしましたとさ」みたいな決まり文句がある。
万物が流転変化するこの世ではそんな物語どおりではない。
すべてに生があり、死がある。
家族でも、恋人でも、夫婦でも「仲良きこと」がいいと一般に言われていて、みんなそこにはまろうとする。
あったかホームドラマみたいに。
でもドラマと現実はやっぱり違う。
わたしは実家の人たちといることが苦痛になってきていたのにそれを隠したまま長く過ごしていた。
とても苦痛になり、実家に行くことが憂鬱になっていった。
実家が悪魔のような存在に思えた。
夫がいなければ実家に帰る気になれなかった。
実家という罠に捕らえられて、だましだましでも我慢しながらこの人生を終えなければならないのだろうと思っていた。
自分でうすうす気づきながらも正視しないようにしてきた。
実家を苦痛に思うなんて「悪いことだ」「不良品だ」と思って知らないふりをしていた。
自分をだましていた。
苦痛なのに実家に通い続けた行為は実家をだましてもいたかも知れない。
真実を隠し続け、本心を偽り続けた行為は虚偽である。
うそつきである。
長年の葛藤の後で自分の虚偽をはっきりと認めたのは数年前だ。
実家との付き合いが苦痛である自分をやっと受け入れ始めた。
そして実家と付き合わないことを自分に許した。
しばらくの間「それって感心できないな」という古い意見が自分の中に響くこともあった。
「だったら行きたい?」と自問すると、行きたいという声は一切帰ってこなかった。
それが答えだ。
本心を一度認めてしまえば偽りの方へはもう戻れない。
それでいいのだ。
小学校の道徳の授業ではもしかすると認められないかも知れない。
でも今わたしはうそをついていない。
ものの話では、ひとつを得るとひとつを失うことになるという。
確かに何かは失ったかも知れないが、自分の本心を尊重するこの選択がわたしには本当に大切だ。
苦痛で仕方がない人間関係に繋がれている人がいたら、わたしはこう伝えたい。
人間関係にも死はありますよ。終わりがあるんです。
そして自分の本当の心を認め、自分の魂を生かすためには、人間関係の死は必要な通り道かも知れません。
通らなければたどり着けない境地があなたを待っているかも知れませんよ。
タロットの『月』。
恐い生き物のいる門を通り抜ける場面を象徴することがある。






